「どまつり」のために、ひとつの詞(うた)を書きました。歌い手は、お馴染みの香西かおりさんで、曲名は「神集い(かむつどい)」といいます。先ずは、その詞をご紹介します。
高天原(たかまのはら)の御霊(たま)よ
天(あま)の御柱(みはしら)回りましょう
イザナギノミコトイザナミノミコトよ
矛(ほこ)をまわしくるくる
島を造ろうくるくる
大八島(おおやしま)国造り
淡路島伊予島(いよのしま)
隠岐島(おきのしま)筑紫島(つくししま)に
壱岐に対馬に佐渡島入れて
大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)
日の本大和の国の始まり
夢の始まり
み神楽かぐらこの世の闇を
歌い踊って清めましょう
太陽が昇らない
高光る願いませ
天の岩屋戸(あめのいわやと) 神集い(かむつどい)
集えや集え八百万(やおよろず)
高笑い跳んでアメノウズメよ踊れ
手拍子足拍子
タヂカラヲ力押し
あの方の鶏よ鳴けよお出ましだ
アマテラスオホミカミ
光をそそぎ給え
スサノヲノカミが行く
クシナダヒメを助けましょう
八岐大蛇(やまたのをろち)は八つの頭(かしら)ぞや
荒ぶる神は何処(いずこ)
八雲(やぐも)立つ彼方から
神招(かむまね)き踊ろうよ
独り神夫婦(めおと)神天(あま)つ神
国つ神この国を護り給え
神々が踊るまほろばの夢よ
倭(やまと)しうるわし
―いかがですか?こんな詞です。
日本誕生にまつわる古代の神話の世界ですね。中でも、アメノウズメノミコトは踊り手の元祖といわれる神さまです。乳房まる出しで踊り狂うアメノウズメノミコトの嬌態に、八百万(やをよろず)の神々はやんやの喝采を送って高笑いをしたと「古事記」は記しています。
天の岩屋戸の前でくり広げられたこの饗宴こそが、日本の最初の「祭り」です。この祭りが催された時、世界は暗黒の闇に包まれていました。太陽神の天照御大神(アマテラスオホミカミ)が、天の岩屋戸にお隠れになってしまっていたからです。八百万の神々は、天の安河の河原に集まって、何とかこの世に光を取り戻そうと話し合います。この神集いで出た結論が、「ともかくも、にぎやかで楽しいことをやろう」というものでした。計画は功を奏して、アマテラスは岩屋戸から「ナニみんなで騒いでんの?」と顔を出しました。そこを逃さず、タジカラヲノカミという力自慢の神さまがアマテラスを引きずり出して、世界はふたたび陽光ふりそそぐ平安を取り戻しました。
祭りの起源であるこの天の岩屋戸神話が私たちに伝えたかったことは何でしょう?
それは、「祭りは、暗い世の中を明るくするためにやるんだよ」ということでした。
それ以降、日本の祭りはーどこのどんな祭りも共通してー二つの役目を担うことになります。それは、「五穀豊穣」と「厄払い」です。どちらも、みんなを幸せにするための祈願です。この目的があるかないかが、「祭り」と「イベント」の違いです。イベントの歌や踊りは、自分たちだけが楽しめばそれでいいのですが、祭りで歌い踊るということは、そこには、みんなの幸せを願い、世の中を明るくするという明確な天命があるのです。
「どまつり」は、祭りですか?イベントですか?答えは、言うまでもないことでしょう。
「どまつり」は祭りだからこそ意味も価値もあるのです。
古代において、「歌う」ことは神と語らうことでした。鈴や太鼓や鳴子は、「清め」の霊動でした。そして、踊り手には、踊っている間は、神が舞い降り、天とつながっている状態になるのです。
踊り手は、踊っているその瞬間だけは、神に化身するのです。その神が願うのは、みんなの幸せと世界の平安です。決して、自分の楽しみのために踊っているのではありません。
だからこそ、「どまつり」は人々に大きな感動を与えることができるのです。
そうした太古の祭りの原点に立ち帰ってもらいたい。「神集い」は、そういう願いを込めて書いた詞です。
私は今年もファイナルの審査員を務めます。
ファイナルの出場チームともなると、技量の面ではほとんど差はありません。その中で、私が最も重要にしている審査基準は、そこに、「祈り」がこもっているかどうかという一点です。
今年のファイナルでは、最初に香西かおりさんが「神集い」を披露してくれることになっています。
これは、いわば清めのお祓いの歌だと思っていただければと思います。
市川 森一(いちかわ しんいち、1941年4月17日生 長崎県出身)
日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター、長崎歴史文化博物館名誉館長、日本放送作家協会理事長。
【主な作品】
『ウルトラセブン』
『傷だらけの天使』
『黄金の日日』
『淋しいのはお前だけじゃない』